相手を「それ(It)」として扱うか「あなた(Thou)」として扱うかで、関係の質が根本的に変わります。マルティン・ブーバーはこの主張を1923年に哲学として結晶化させました。これはコーチングにおける「聞く」という行為の、最も深い哲学的基礎です。この記事は局面⑤入口記事で扱ったブーバーの思想を、さらに掘り下げます。

第2シリーズのL2(理論深掘り)にあたる、シリーズ全体の最後の理論深掘り記事です。この理論の性質(純粋な哲学であり、実証の対象ではないこと)については記事R4で扱います。


目次

  1. 『我と汝』という書物の性質と2つの根源語
  2. 「それ」の世界と出会いの持続しなさ
  3. 「間」という第三の場所と永遠の汝
  4. コーチングの「聞く」を存在論として捉え直す
  5. 今日から試せること
  6. よくある質問
  7. まとめ
  8. 参考文献

1. 『我と汝』という書物の性質と2つの根源語

ブーバーの主著『我と汝(Ich und Du)』(1923年)は、通常の哲学書とは異なる詩的で格言的な文体で書かれています。体系的な論証というより、繰り返し読むことで理解が深まる性質の書物です。このシリーズでは「理論」として紹介していますが、ブーバー自身はこれを分析的な理論として提示したわけではなく、人間存在の根本的な様式についての直観的な洞察の表明として理解するのが適切です。

ブーバーは、ユダヤ神秘主義の一派であるハシディズムの物語や思想を、生涯にわたって研究・翻訳しました。『我と汝』の背景には、神との出会い(垂直の対話)と人間同士の出会い(水平の対話)を連続するものとして捉える、ユダヤ思想の伝統があります。

根源語という発想

根源語(Grundworte)とは、人間の世界との関わりが「私」という単独の言葉ではなく、常に対になった言葉によって成立するというブーバーの中心概念のことです。

根源語 構成する対
I-It 「われ」+「それ」
I-Thou 「われ」+「なんじ」

「私(I)」という主体は単独では存在しません。どちらの根源語を語るかによって、私のあり方そのものが変わる、とブーバーは考えました。

図解

I-Itの様式で誰かと関わっているとき、私自身もまた対象化する側の「私」として、ある種、縮小した形でしか存在していません。I-Thouの出会いにおいてのみ、私は全存在として現れます。それは相手を対象化しないと同時に、自分自身も断片化されていない全体として、その出会いに現れるということです。


2. 「それ」の世界と出会いの持続しなさ

ブーバーはI-Itの様式を否定しているわけではありません。「Itの世界なしに、人間は生きられない。しかしItの世界だけで生きる者は、人間ではない」という一文が、この思想の誠実さを示しています。

図解

日常生活の大部分はI-Itの様式で成り立っています。買い物、事務処理、計画立案——これらは対象を分析し、利用し、比較する行為であり、それ自体は必要で否定されるものではありません。問題になるのは、I-Itの様式が唯一の様式として固定化されるときです。すべての他者を常に手段・対象・分析の対象としてしか見られなくなったとき、それはブーバーの言う「非人間化」にあたります。

I-Thouは瞬間として立ち現れる

I-Thouの関係は持続しません。それはその都度、瞬間として立ち現れ、そして必ずI-Itへと沈殿していきます。ブーバーの主張の中で、実務上最も重要な特徴です。

図解

これは悲観的な主張ではありません。むしろ、関係とは一度確立すれば永続するものではなく、繰り返し更新される必要があるものだという、リアリズムです。あるセッションで深い出会いが起きたとしても、次のセッションで自動的に同じ質の出会いが再現されるわけではありません。前作シリーズの原則13で扱った「関係は放っておくと必ず劣化する」という主張と、この構造は驚くほど似ています。関係の質は一度作れば終わりではなく、その都度新たに立ち上げ直す必要があるのです。


3. 「間」という第三の場所と永遠の汝

「間(Das Zwischenmenschliche)」とは、本質的なことが個人の内側にも社会という外側にも存在せず、二人の間にその都度立ち現れるという、ブーバーのもう一つの重要な概念のことです。当時の心理学(そして現代の多くの心理学も)は、心的な出来事を個人の内側で起きるものとして扱いますが、ブーバーはこれに異議を唱えます。

図解

この視点は、コーチングの成果を「誰の手柄か」という問いから解放します。

従来の見方 ブーバー的な見方
「コーチの技術が、クライアントを変えた」 クライアントの中にも、コーチの中にも、還元できない
「クライアント自身の力で変わった」 変化は、「間」で起きた出来事である

これは前作シリーズの原則0の「答えは自分で見つける」を、さらに一歩進めます。答えはクライアントの内側だけにあらかじめ存在していたのでもなく、コーチが与えたのでもなく、その出会いの間で初めて立ち現れるのです。

永遠の汝という宗教的次元

永遠の汝(the Eternal Thou)とは、すべてのI-Thouの出会いがその根底で神、あるいは究極的な実在との対話に通じているという、ブーバー思想の宗教的な次元のことです。このシリーズでは、この宗教的・神学的な次元には深く立ち入りませんが、ブーバーの思想を宗教的な信念を前提とせずに理解することも可能で、実務上は「出会いには個人を超えた次元との接続がある」というより一般的な直観として受け取ることができます。これは前作シリーズの原則16(祈り)——「相手を含めるが、一切合わせない」——の背景にある、より広い射程とも接続します。


4. コーチングの「聞く」を存在論として捉え直す

技法としての「聞く」だけでは、I-Thouの出会いは起きません。多くのコーチング研修は「聞く」を技法として教えますが、相槌のタイミング、要約の仕方、うなずきの頻度は、ブーバーの視点から見るとすべてI-Itの水準の操作です。技法としての「聞く」は、相手を「聞かれる対象」として扱っているという点で、それ自体はI-Itの様式にとどまっています。

図解

これは技法を否定するものではありません。前作シリーズが精緻に扱った技法(姿勢、呼吸、問いの立て方)は、I-Thouの出会いが起きうる条件を整えるための必要な準備です。しかし条件を整えることと出会いそのものが起きることは、別の次元にあります。技法を完璧に実行しても、I-Thouの瞬間は保証されません。

コーチはI-Thouを作れない

I-Thouの出会いは、意図的に確実に作り出すことができません。これはこれまでこのシリーズが提示してきた多くの「技法」——姿勢を整える、呼吸を整える、問いを立てる——とは、根本的に異なる性質の主張です。

図解

コーチにできるのは、出会いが起きやすい条件を整えることまでです。出会いそのものはその都度、恵みのように訪れるものであり、コントロールの対象ではありません。これはコーチングという営みに対する、ある種の謙虚さを要求します。どれだけ技法を磨いても、「今日、この人と本当に出会えるかどうか」は保証できません。しかしこの不確実性は絶望の理由ではなく、技法を磨き続けながら出会いのその都度性を尊重するという、両立した態度こそが成熟したコーチのあり方だと言えるでしょう。


5. 今日から試せること

今日からできる実践は3つです。今日出会った人をI-ItとI-Thouで振り返り、「間」に注意を向け、I-Thouを作ろうとしない、という順序で試してみてください。

  1. 今日出会った人を、I-ItとI-Thouで振り返る:今日会話した人を思い浮かべ、その関わりがどちらの様式に近かったかを振り返ってください。評価ではなく観察として行ってください。
  2. 「間」に注意を向ける:次の対話で、自分の内側でも相手の内側でもなく、二人の「間」で何が起きているかに意識を向けてみてください。
  3. I-Thouを作ろうとしない:出会いを意図的に作ろうとする努力を、一度手放してみてください。技法を整えた上で、あとは委ねるという姿勢を試してください。

6. よくある質問

I-Thouの瞬間は、どうすれば見分けられますか?

明確な基準はありません。これはブーバー自身が意図的に定義を厳密化しなかった部分です。強いて言えば、「相手を、何かのため(手段)としてではなく、その存在そのものとして感じている瞬間」というのが最も近い記述です。

技法を極めれば、I-Thouは自動的に起きやすくなりますか?

「起きやすい条件」は整えられますが、保証はできません。技法と出会いは連続しているが、同一ではありません。これがブーバーの思想の最も重要で、最も居心地の悪い部分です。

ブーバーの宗教的な側面(永遠の汝)は、無視してよいですか?

実務上は、無視しても大きな支障はありません。より一般的な「出会いには、個人を超えた次元がある」という直観として受け取ることができます。ただし、この思想の全体像を理解したい場合は、ブーバーの宗教哲学的な背景(ユダヤ神秘主義、対話の神学)を知ることが、より深い理解につながります。

これは科学的に検証できる理論ですか?

検証の対象ではありません。これはこのシリーズで扱う7理論の中で、最も明確に「哲学」の範疇にある思想です。現象学的な記述であり、実証科学の枠組みでは検証可能性を問うこと自体が、この思想の性質に合いません。詳細な位置づけは記事R4で扱います。

なぜ、このシリーズの最後をブーバーで締めくくったのですか?

このシリーズの弧(形成→統合→動機→構え→出会い)の、最終到達点だからです。そして技法(このシリーズと前作シリーズが詳細に扱ってきたもの)だけでは、出会いは保証されません。最後にこの限界を明示することは、シリーズ全体の誠実さの表明でもあります。


7. まとめ

  • 『我と汝』は、体系的な論証というより直観的な洞察の詩的な表明として理解する
  • 「私」は単独では存在せず、どちらの根源語を語るかによって、私自身のあり方も変わる
  • I-Itの世界は否定されるべきものではない。日常の大部分はI-Itで成り立つ。問題は固定化
  • I-Thouの関係は持続しない。その都度立ち現れ、I-Itへと沈殿していく
  • 「間」——本質的なことは、個人の内側にも社会にもなく、その都度の出会いの場所に存在する
  • コーチングの成果は、「誰の手柄か」という問いから解放される
  • 「聞く」を技法として捉える限り、それはI-Itの水準にとどまる
  • I-Thouの出会いは、意図的に確実には作れない。コーチにできるのは、起きやすい条件を整えることまで
  • この不確実性を受け入れることが、成熟したコーチのあり方

8. 参考文献

  • Buber, M. (1923). Ich und Du.(邦訳『我と汝・対話』岩波文庫、田口義弘訳、あるいは植田重雄訳)
  • Buber, M. (1947). Between Man and Man.
  • Buber, M. — ハシディズム研究・翻訳の一連の著作
  • Friedman, M. (1955). Martin Buber: The Life of Dialogue. University of Chicago Press.
  • Anderson, R., & Cissna, K. N. (Eds.) (1997). The Martin Buber–Carl Rogers Dialogue: A New Transcript with Commentary. SUNY Press.

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